【ACOH-S 通信 NO.129】「無能な人」から「無限の可能性を信じる自分」へ(紀子さん)

カテゴリーACHO-S通信体験者の声
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アコーズに入ってもうすぐで1年になろうとしています。

太極拳と功夫を始めて起きた変化は、自分にとってものすごく大きなもので、2024年はこれまでの人生の中で一番といえるほどの変革の年となりました。

通信を書かせていただくこの機会をきっかけに、振り返ってみようと思います。

長くなりますが、年末年始の暇つぶしのひとつとして読んでくださると嬉しいです。

無能な人

まず、私くらいの世代は戦争もなく、物質的にとても恵まれています。20代からすでにインターネットや携帯電話もあり、何不自由なく安全で快適な環境で育ってきました。しかし、私は物心ついてからずっと”もっともっと頑張らないと自分には価値がない”といった劣等感や焦燥感に苛まれてきました。

私の好きな登山家の服部文祥さんが著書でこう書いています。

「生きるということに関してなにひとつ足りないものがない時代に生まれてきた。それが僕らの世代共通の漠然とした不安である。老人たちは決まってそのことを贅沢な悩みだという。(中略)僕らは自分で奪ってくるものをなにひとつもっていない。なにひとつ欠けていないという欠落感を人権だ個性だという自意識教育が煽り立てる。環境が満ち足りているのに、何もできないというのは恐ろしい。それはダイレクトに無能を証明するからだ。」サバイバル登山家/P28より

私自身まさにこれでした。特技も何もない、勉強やスポーツが特に秀でているわけでもない。何もできない、でも何かしないと存在価値がない…。

そんな焦りを消すために、会社では昼も夜も関係なく働き、無能ではないことを証明するために実績に執着して、会社の数字をひたすら追う。そのストレスを発散するために、お酒やタバコをやり、愚痴や不満をひたすらこぼす…。推し活やゲームに没頭して現実逃避する。やがてストレスや過労から心身を壊し始め、次第に「自分はなんて不幸なんだ!」と考えるようになり…(典型的なドーパミン中毒ですね…本当に思い出すのも恥ずかしいです)。

今考えると、人からの評価や社会の価値観を気にするばかりで、自分がどうしたいか?といった自分軸というものがまったくない空っぽな状態でした。

そんな時に始めたのが登山でした。

登山は自分の身体を使って世界を拡大していく行為で、広大な自然の中で身をおくと自分の悩んできたことが急にちっぽけに感じてきました。山では水も電気もトイレも暖かいご飯も当たり前ではなく、トラブルはすべて自力で解決する。自分の命を自分で担ぎ上げる登山は「自分が自分である」という身体感覚を実感できる行為であり”無能な人からの脱却”でした。

特に運動神経や身体能力が優れているわけでもない自分にとっては、他のスポーツなどとは違って、人と競い合ったりせず、特に社会の役にも立たず(笑)、比べるとしたら過去の自分だけ、というのも性に合っていました。

山ではいつでも誰でも遭難するリスクがあり「助け合い」の精神が必要です。そして、自分のことは全て自分でやるのは最低限として、人を気にかける余裕を持つためには、まず自分が強くなければなりません。ある程度登れるようになってからは「もっと強くなりたい」という気持ちが芽生えてきました。

しかし、長年「もっと頑張らないと!」と焦り続けた癖はここでも悪い方向に出てしまいます。登山のダメージを放置したまま自己流の筋トレやランをして、歩けないほどの腰痛と膝痛を発症してしまいました。整体に通ってみて一時的に痛みが引いても、山に登るとぶり返してしまう。

せっかく自分らしさを実感できる趣味が見つかったというのに、今後はもしかしたら山歩きができなくなるかもしれない…もしくは出来たとしても、年齢を重ねていくごとに身体はきっとどんどん壊れていってしまうのだろう。やはり、こういったアクティビティは身体能力に恵まれた人しかできないのかもしれない…またしても無能な人に戻ってしまうという絶望感。

そこで出会ったのが武術でありアコーズでした。

武術との出会い

腰痛で寝込んでいた時に「剱岳-点の記」という登山小説を読み、ふと疑問が浮かびました。昔の人は登山靴も高性能なウェアや高カロリーな食べ物も持たず、草鞋で険しい山に登っていた…。生活習慣も今とは全然違う。ということは、そもそも現代人とは身体の使い方が違うのではないか?と。

少し調べてみると「ナンバ歩き」という古武術の歩き方が出てきました。筋肉ではなく、骨や関節、体の連動性や重心移動を利用して歩く、というその歩き方をみて「これだ!」と思いました。

また、武術の人たちはみんな決まってこう言うのです。

「正しい体の使い方をすれば、誰でも必ず身体能力は伸ばせる。年齢も性別も関係ない」

「人間が本来持つ能力は素晴らしい。現代人は文明社会でそれを失っている」と。

「生まれ持った身体能力や才能がなければたいして何もできない。歳をとると衰えていくだけ」という思い込みに縛られていた自分にとっては衝撃的でした。

武術をやってみたい。

できればちゃんと本格的で、伝統的で奥深く、かっこいいやつ!

ネット検索して出てきたアコーズのHPの秋葉先生をみた時、その全てがそこにあり、すぐに体験に申し込みました。

初めて体験する準備気功(自己整体一気功)は、ひと山登り終えたくらいキツく、そして爽快感に満ち溢れていました。頭の中がいつもぐちゃぐちゃで焦燥感でいっぱいの私は、実はこれまで瞑想やマインドフルネスを試してみても一度もうまくいったことがなかったのですが、ここで初体験した立禅では初めて瞑想状態に入れたことに感動しました。

また、目の前に立つ秋葉先生がとにかく強く、美しく「武術に年齢は関係なく、何歳になっても身体能力は伸ばせる」というお手本そのものでもありました。

自分の身体と真剣に向き合うということ

太極拳では「強い立ち方」を教えていただき、これまで自分が当たり前にできていると思っていた「立つ」ことさえもできていなかったことに驚きました。「立つ」ことができてない人間が、良い動きができるはずがありません。また、準備気功や型をやるほどに「反り腰」「膝が内旋する癖がある」「力みすぎ」等々…自分の体のエラーが次々に炙り出されていくのです。

実は水曜のカンフーは、通い始め当初まったくついていけず、何度も「太極拳だけにしようかな」と悩んでいました。カンフーでも後ろ重心の「立つ姿勢」ができない…。頑張っても膝が痛くて立てない…。

ここで「ベストな健康・身体状態でないと、まず武術の入り口に立てない」ということに気がつきます。

「自分は実は思っているよりできている。健康である」と思いたいものですが、現実は残酷で、やはりできてないものはできていません。できていない、不健康な自分と正面から向き合うのはかなりきついものがあります(ここでカンフーをやめなかったのは、熱心に教えてくださる香織さんはじめ先輩方の支えや励ましがあったからに他なりません)。

そこで、整骨院の治療やリハビリのパーソナルトレーニングを受け、まずは身体の不調に全力で取り組むことにしました。

太極拳やカンフーをしていると、先生が指導する「まっすぐ」と自分が考える「まっすぐ」にかなりの感覚の差があることに気がつきます。

自分の体や軸の歪みは、長年かけて自分の身体と脳に染み付いている、とてもやっかいなやつです。

武術は、自分の体と脳の認識のズレを感覚で覚え、修正を繰り返す…薄い皮を一枚ずつ脱皮していくような地道な訓練のように思います。

私は体の治療と武術を並行して行ってみて「武術の成長も治癒も根本的には同じ」と感じることがあります。

けっして受け身では変わることはできず、過去の自分の執着や癖を手放し、自分の目でみて、自分の頭で考えて、自分の体を何度も動かしてみて、試行錯誤を繰り返してほんの少しだけ前進できる。その積み重ねのような気がしています。

今ではすっかり体の痛みはなく、ようやくほんの少しだけ「立つ」ことができるようになってきました。まだまだこの先の道のりは果てしなく長いです。

台湾ツアーから得たもの

一番大きな転機になったのは、2024年8月の台湾ツアーでした。

秋葉先生の先生でもある台湾の陳佐鎮老師にお会いできる…。そんな貴重な機会があるなら、カンフーを一度ちゃんと頑張ってみよう。そう思って、春から初夏にかけては先輩方に追いつけるように、必死で套路を覚えました。

残念ながら台湾では陳老師にお会いすることはできませんでしたが、現地の師兄たちに直接指導いただけたのは本当に良い刺激になりました。

言葉がわからなくても、熱心に導いてくれる師兄たち。対練が終わったその夜は、身体中の気血が湧き上がるように熱かったのを覚えています。

まずは、一生懸命やってみる。一生懸命にやってみて損をすることなんて何ひとつない。そして、一生懸命やってみないと分からないことがある。…この経験を通して、苦手だったカンフーが大好きになりました。

また、ツアー中に学くんや苑子ちゃんと武術の話をしたり、むっちゃんと同じ部屋で過ごして仲良くなれたり。ガイドをしてくれた雨ちゃんと知り合えて、中国語を学ぶきっかけも作れました。このような場を用意してくれた先生、龍太さん、雨ちゃんには本当に感謝しかありません。

推手で知る太極拳・カンフーの奥深さ

台湾ツアー後は、推手と組手の面白さに夢中になりました(現在進行形です)。推手や組手をやると、秋葉先生や香織さんがいかに強いか、体の状態が整っていて、体の使い方が上手く、積み重ねてきたものが大きいかを身に染みて感じます。

推手に取り組みはじめてから「放鬆(ファンソン)=余計な力を抜くこと」の壁が立ちはだかりました。これまでの人生で「頑張らないと!」と力み続けてきたのと真逆のことに取り組むのは、もはや何をどうしていいのかさっぱりわかりませんでした(今でもわかっていません)。力んで頑張ることは簡単なことだったのでは?とすら思います。

「放鬆」があまりにもできなさすぎて、体の内部構造の話やスポーツ科学の本、中医学、整体の本なんかも読んだりしました。でも結局一番のヒントは、普段先生が練習の合間に話されている「意識が大事」「指先まで気を通して」「三合」「呼吸の大切さ」といったことや、太極拳の套路の中にあり、悩んだ時こそ基本に立ち返るのが大事なのではないか?と試行錯誤を繰り返す毎日です。

推手や組手を深掘りすると、自分の中の課題の組み立てが少しずつ明確になり、さらに準備気功や套路でやっている動きのひとつひとつの意味を考えるきっかけにもなります。準備気功の動き全てに上達のための大事な要素があり、まだまだ自分が気がつけてない部分もたくさんある気がします。それほどに今取り組んでいる武術は奥深いもので、人生をかけて追求していく面白さと価値があるように感じます。

推手の「接触した部分から相手の気を読み、気を交換する」という動作は、運動神経や言語を超えた感覚神経を研ぎ澄ますようなところがあり、もしかしたら、かのブルース・リーが「Like a water」「Don’t think feel!」と言っていたのはこのことに近いのかも…?と考えたりもします(あっているかは分かりませんが…)。

「進化」する身体

秋葉先生は、私の変化の様子をよく上達ではなく「進化」と表現します。人間の体は細胞が完全に入れ替わるのが3ヶ月、といわれていますが、3ヶ月ごとに自分でも「あれ、変わったかも?」と思うことが出てきます。身体が変わった途端にできなかったことが急にできたり、新しい気づきが生まれたりと、まさに「進化」という表現がぴったりな気がします。身体能力が伸びるというのは結局のところ「身体が進化する」ということなのかもしれません。

まだまだ心身ともに未熟なところばかりですが、それは「これから進化し、成長する余地がある」ということでもあります。1年前なら100%は信じられなかった「何歳からでも人の身体能力は伸びる」というのが自分自身を通して明確になってきました。

そして、今の自分はもう「無能な人」ではありません。むしろ無能かどうかなどどうでもいいことです。

「変われる」とわかった今は、登山に対する焦りや執着も和らいで、以前よりも落ち着いた気持ちで山に登れるようになりました。登山のために始めた武術でしたが、いまや武術の鍛錬の成果を山で試してこようかな?という感じにすらなっています(笑)。

武術で下半身の筋力がついたり、股関節がうまく使えるようになって怪我や転倒が減ったり、重い荷物で登山をしても疲れにくくなったり等、身体的なメリットはもちろんたくさんあります。

でも、一番のメリットは、人生観そのものが変わり、自分の体の軸が整ってくるにつれて心の安定感も増し、自分の人生に対して前向きに取り組めるようになったことではないかと思います。

生涯続けたいものが2つへ

先生はよく「視線が大事」「視線を遠くへ向けなさい」と言います。登山でも、苦しい時ほど視線を前に向けて山頂を目指せ、といいます。

武術と登山は、本質的には「サバイバル戦略」であり、身体を通して哲学する部分がとても似ていると感じます。

武術の鍛錬は山で活きるし、山に長時間入って下山した後の太極拳は、力が抜けて自然体に近い状態でいられます。両方やることで相乗効果のようなものが生まれ、どちらも生涯死ぬ直前までやり続けたいものになりました。

「武術、もっと早くに始めたかったなぁ」と思うこともありますが、登山をやっていなければ武術の本質的な良さを見出すことができず、すぐに辞めていたかもしれません。

人はやるべき時に、やるべきものに出会うと言いますが、今このタイミングで武術を始めることができたのは、自分にとってベストなタイミングだったのでしょう。

最後に

私の身の回りの同世代は、かつての自分のように漠然とした「生きづらさ」や「虚無感」「焦燥感」「自己否定」を抱えて心身が不調な人がとても多いです。AIが当たり前になり、情報過多で頭で考えることばかりの時代で、身体性はますます失われつつあります。そんな時代だからこそ、身近な人から順に「太極拳、気功、武術、すごくいいよ」と声をかけています。あなたにも、無限の可能性があるよ、と言いたい。

「太極拳?老人が公園でやってるでしょ?」と言われることもありますが、これからさらに複雑で不安な時代を生きていく若者にこそ、武術は必要な生存戦略な気がします。

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武術2年目に突入します。

私はこれからの自分自身の変化がさらに楽しみです。

アコーズに入れて、秋葉先生や教室のみんなと出会えて本当に良かったと思います。

1年間ありがとうございました。またこれからの1年もよろしくお願いします!

紀子

紀子ちゃんの感想に寄せて

1997年香港在住時から教える事を始めて27年間、ここまで人生が激変した!と言ってもらえた事は、私自身も非常に嬉しく、教室を続けて来て良かった!と思える瞬間でした。

今までも、確かに身体が変わった、身体操作が楽になった、考え方が変わった等など、たくさんの感想をいただいて来ました。

ただ、ここまで深く人生の深淵にまで迫り、自己洞察からの変化を詳しく伝えてもらえた事に、こちらこそ感謝の気持ちでいっぱいです。

いつも明るい紀子さんから、この様な絶望感があったとは、想像もできませんでした。

入られてから、すぐに登山能力が飛躍的に進歩したとかは聞いていましたが、こんなにも多くの問題意識を抱えて生きて来られたとは、、、

だからこそ、受け取る果実が大きかったのでしょう。

私が一番嬉しかったフレーズは、

「無限の可能性を信じられる自分になれた!」

これです。

おそらく、わたしの中でずっと教室を続けて来た根底には、人はいつからでも、変われる、自分の可能性は自分の意識次第である。と言うことを伝えたくて、今もこうして人様にカンフーを伝えているんだ!とあらためて、気付かされました。

と言うのは、それを自分自身が一番実感しているからです。

紀子さんがこんなにも中身の濃い一年間にできたのも、それはやはり紀子さん自身の意識の持ち方にあります。

以下は紀子さんの文章

武術は、自分の体と脳の認識のズレを感覚で覚え、修正を繰り返す…薄い皮を一枚ずつ脱皮していくような地道な訓練のように思います。

私は体の治療と武術を並行して行ってみて「武術の成長も治癒も根本的には同じ」と感じることがあります。

けっして受け身では変わることはできず、過去の自分の執着や癖を手放し、自分の目でみて、自分の頭で考えて、自分の体を何度も動かしてみて、試行錯誤を繰り返してほんの少しだけ前進できる。その積み重ねのような気がしています。

その通りです!

受け身では、いつまでも変われないのです。

また、即結果を求める人には掴めない地道な修練なのです。

全てはその人自身。

立ち方も、定義を知った後は、自分で試行錯誤しながら追求する。

本来の武術は、人との闘いの為にあるのではなく、自分との闘いにあります。

紀子さんの人生の変革と成長のお手伝いができたことは、本当に教師?老師冥利に尽きます。

こちらこそ、ここまで私の作る場において、最高の果実を掴み取る事が出来た紀子さんには、感謝を返したいと思いました。

中国四千年からの古人が、人間を研究して出来た最大限の身体能力のノウハウは、紀子さんが言う様に、AIでは行き着けない秘技がたくさんあります。

今ハマっている武侠小説を読んでいると、随所にそれを感じます。そんな古代からの遙かなたの先人の知恵を通して、これからも一緒に楽しく研究進化していきましょう!

紀子さんの二年目の進化を期待して。

昨年11月頃、体験希望者が30名を越えて、waiting リストが溜まる一方の頃に、一人体験希望の動機に惹かれる方がいました。

以下

私の友人で、最近太極拳を始めてみるみるイキイキしだして楽しそうにしている友人がいるので、わたしもやって見たいと思い体験希望しました。

とありました。

私はそれを読んだ時、そんな太極拳教室が、アコーズ以外にもあるの?

と、純粋に好奇心に駆られ、その方を優先的に体験受け入れしたのです。

蓋を開けたら、それが紀子さん、つまり紀子さんのお友達のめぐみさんだった訳ですが、紀子さんは、めぐみさんに教室を教えてなかったそうです。(waiting が多いから気を使った。)

そんな状況の中、めぐみさんは一から太極拳教室を探し、アコーズのHPにたどり着き、すぐさまここだとわかったそうです。

こんな話もアコーズならではのエピソードの様な気がして、ここに追加させていただきました。

どんな広告を打つより、アコーズに通い始めた方が、輝き出して、周りの人がそれに気づいてくれる事こそが、真に絶大な広告であると思えた瞬間でした。

湘之奇 秋葉明子